青井 茂 株式会社アトム 代表取締役
不動産という仕事をしているからだろうか、僕は普段から街を歩くのが大好きだ。仕事柄頻繁に海外にも出かけていく。言葉が通じない、看板も読めない、バスに乗ろうとしても行き先がわからない。そんな不便もあるけれど、旅先でいちばん楽しいのは、その街の素顔に出会うことだ。大通りからちょっと横道に入ると、そこではいつでもドタバタ賑やかな日常劇場が広がっている。その空間には、経済合理性なんてかけらもない。だけどとても個性的で、カラフルで、ほんの少しお邪魔しただけの旅人さえ、あっという間に魅了する。
それに比べて、近頃の東京は退屈な街になってきた。山手線で一周して1時間。どこの駅で降りてもほぼ間違いなく高層ビルやマンションが並んでいる。毎日なにか古いものが壊され、代わりに新しいものが作られる。作って壊す、そしてまた、作って壊す。30年周期でスクラップ&ビルドを繰り返す日本の不動産様式には、一体どんな意義があるのかと思う。資本主義の中の経済合理性。それらを根拠に建てられたビルがどんどん街を覆い尽くせば、おのずと景観は単調になり、地価も上がり、そこを生活拠点にする人も入れ替わる。横道にあった小さな商店は耐えきれずにその地を離れ、さっきまでそこにあった「文化」はじわじわと侵食されて消えていく。
僕は、「文化」の根底には「遊び」があると思っている。「遊び」から「文化」が生まれると言っても、間違いではないかもしれない。でも、日本が経済的に大きく成長を遂げる間に、気づけば東京から「遊び」が消えた。だからひとの心には余裕がないし、異質を受け入れる多様性も損なわれてしまった。だけど、たとえば整然とした大都会に突如、違和感を感じるものやおかしみのあるものが現れたら、無性にワクワクしないだろうか。事実、僕は六本木の裏通りの端っこに、まるでサザエさんが住んでいるような家を見つけると、なんとなく嬉しくなる。その横に、駄菓子を売っている店があれば最高だ。結局、「無駄」と「遊び」は違うのだ。スクラップ&ビルドで造られた東京の街は、「無駄」を排除するつもりが、もともとそこにあった「遊び」まで排除してしまった。だから、東京から「文化」が消えた。必要以上に景観が整えられ、多様性を失った街に並ぶ完璧なビル群は、まるで隙のないオール5の優等生集団みたいだ。確かに収益性を考えたら、最高のいい子ちゃんだ。でも、人々の心に残らないし、記憶の爪にも引っかからない。
僕らの会社A-TOMが作ったコートヤードHIROOは、決してオール5の優等生じゃない。もともとこの建物は、昭和43年に団地型集合住宅として建てられ、旧厚生省公務員の宿舎や駐車場として長く使われていたものだ。その後、しばらく空き家として放置されていたところを、僕たちの会社が手に入れた。僕には最初から夢があった。ここを舞台に、これまで東京で誰も挑戦してこなかったことに挑んでやろう。それが、「既存の建物を壊さず、新しい複合施設として再定義する」ということだった。建物の歴史的佇まいや敷地バランスを現代の生活に合わせた形で再構築し、都市生活に豊かさを取り戻す。そのために考えたのが、コートヤード(=中庭)としての再スタートだった。
もちろん資金回収のスピードだけ考えたら、古い建物を完全に取り壊して巨大な高級マンションを建てた方が、ずっと単純で簡単だ。A-TOMヒルズとか、A-TOMレジデンスとか、そんな名前をつけて売り出せばたちまち資金を回収できる。だがそんなことは、僕たちでなくても可能だ。僕たちA-TOMは今の不動産業界に一石を投じたいと思っているし、僕たちにしかできないことがきっとある。今後100年、200年というスパンで持続可能なモデルを提案していくという想いを、今の時代にとんがったことで示したかったのだ。もっと正直に言えば、A-TOMはこれまでの不動産業界のいい子ちゃんであり続けることを放棄したかったという想いもある。僕は子ども時代、オール5を目指そうとする人間だった。「いい子」でいなければならないと常に心掛けていた。本当は算数や国語が1であっても、体育が5以上であるような、何かに突出したヒーローでありたかったのに。40歳にしてそんな幼少の頃を思い出し、自分自身の殻を破りたいと感じている。
コートヤードHIROOが誕生して、3年が経つ。当初は「東京の人口のうち、3%の3%に響くプロジェクトにしたい」という想いがあった。東京の人口の3%は36万人だが、こんなに多くの人を相手にするのは、超大手企業に任せればいい。3%の3%は約1万人。このひと達を動かすことができたら、なにか新しい文化を生み出すことができるのではないか。一過性で終わるブームではなく、きちんと東京という土壌に根づく文化を作れるはずだ。僕たちはまず、このラインを目指した。現在、コートヤードHIROOを訪れるひとの数は、年間約2万人だ。スタジオで運動するひと、ワークスペースで働くひと、レストランで食事をするひと、イベントにやってくるひと。ここでは毎日、たくさんの出会いがあり、多様な価値観が交差する。「気持ちいい空間だ」と、訪れたひとに声をかけてもらい、ここで出会ったひと達が親しげに交流を深める様子を見ることは、僕らにとってこの上なくしあわせだ。
四角く切り取られた東京の空を見上げながら、僕はいつも考える。不動産という仕事は、決して土地や建物を扱うだけじゃない。土地や建物という動かないものの上に流動的な価値を作り、文化を発信していく責任も負っているのだ。将来ここに集まるひと達の、まだ目には見えない未来の営みまでも創造するのが不動産という仕事なら、そこには競争原理は働かない。むしろ、業種の垣根を超えてたくさんの企業や団体が手を取り合い、本当の豊かな生活に向けてひとつの価値観を共有する。そこには体育が5のヤツもいれば、算数が5のヤツもいるだろう。そんな知恵とアイデアの集合体が、東京をもっと魅力的で創造性のある街に変えていくのだと思う。
大山エンリコイサム Enrico Isamu Ōyama
大山エンリコイサムさんがアートに興味を抱いたのは高校生の頃。2000年代前半に日本でストリート文化が流行り、ニューヨークのアーティストやストリートファッションが、さまざまな雑誌で紹介された。当時の大山さんもそれらに興味を持った。
「ブレイクダンスやスケートボードを始める友人が多かったので、自分は人がやらないことをやりたかった。絵をかくのが好きだったので、ライティング文化に関心をもちました。」
ライティング文化は1960年代末、ニューヨークのワシントン・ハイツから生まれたもの。エアゾールやフェルトペンで壁や地下鉄に名前をかくこと(writing)から始まった。社会問題の意味を含めてグラフィティ(落書き)とも呼ばれるが、当事者たちは尊厳を込めて「ライティング(かく行為)」と呼ぶ。表現の自由度が高く、80年代にはアート作品としての価値が認められた。単なる若者文化の域を超え、ストリートアートとして独自の地位を確立したが、それは発祥地であるニューヨークの話。そこにはライティング文化が生まれる必然性があり、社会的な意義もあった。だが、それを日本で真似したところで、肝心の背景がない。
「1970年代のニューヨークで発展したものを、2000年代の東京でそのままやることにためらいがありました。公共物にかいてまで自己主張する必然性もありません。でも僕の作品は確実にライティング文化の影響を受けている。そんなことを気にせず活動しているライターに憧れを抱きつつも、自分はジレンマに悩みました」
自分とライティング文化の距離感は消えない。完全なインサイダーになりきれない。だが、ライティング文化に強く影響されている。その葛藤から目を背けず、丁寧に自己分析する過程で少しずつ生まれたのが大山さんならではのスタイルだ。
「現代美術の文脈と、ライティング文化の文脈。両者を交差させ、化学反応を起こし、自分の立ち位置を築くことができたように思います」
大山さんの作品は、独特だ。塗料が滴れるようにかく「ドリップ」など、ライティング文化の特徴的な技法を用いながら、自分のスタイルを表現する。その大山作品を解釈するためのキーワードが「クイック・ターン・ストラクチャー(Quick Turn Structure)」だ。
「もともと、ライティング文化は自分の名前を公衆に見せるために始まった行為。初期ライターは有名になるために、壁や地下鉄、さらに映画や雑誌の撮影に映りそうなスポットまでターゲットとして狙いました。でも僕は、自分の名前をかくことにはあまり関心がなかった。そこで、ライティングのビジュアルから文字を取り除き、線の運動のみを取り出して反復し、抽象的なモチーフに再構成したのがクイック・ターン・ストラクチャーというモチーフです」
クイック・ターン・ストラクチャーは「運動する線の連続体」。もともと大山さんは、ライティング文化の文字そのものよりも、そこに波打つ躍動感や疾走感、立体感に惹かれていた。そこで、躍動感や運動性をもつ線(=クイック・ターン)を立体的な構造(=ストラクチャー)として再構成することで、クイック・ターン・ストラクチャーを確立した。
「クイック・ターン・ストラクチャーは抽象的であるため、文字として読み取る必要がありません。特別なリテラシーがなくても、純粋にビジュアルとして楽しめます。また、抽象は個人によって受け取り方や解釈に幅をもたせることができます。鏡のように鑑賞者の心を映すといってもよい。だから、さまざまなメディアに拡散されやすい。横断性の高さにもつながっています」
現在、ライティング文化の本場であるニューヨークを拠点にする大山さんは、2017年9月、コートヤードHIROOで個展「ファウンド・オブジェクト Found Object」を開催する。展示するのは新作15点。ニューヨークを始め、世界各地を旅して訪れた古道具屋で見つけたドローイングや無名アーティストの作品に、独自の視点でクイック・ターン・ストラクチャーを配置する。
「オブジェとの出会いから創作が始まる」と語る大山さん。色あせた写真や傷んだフレームは、それぞれの事物が重ねてきた時間の厚みを感じさせ、静かにストーリーを語り出す。そこに、大山さんの手が加わることで、新たな生をもった作品として蘇る。それは、かつて旧厚生省公務員宿舎として建てられ、リノベーションを経て現代に息づく「コートヤードHIROO」というスペースのストーリーと、調和するだろう。
「初めてコートヤードHIROOを訪れて、想像以上に落ち着いた空間だったことが印象的でした。内部にはレストランもあり、少しエクスクルーシブだけど、知る人ぞ知るプレシャスな場所。この静謐な隠れ家で、作品の物語に耳を傾けてもらえたらと思います」
長谷良樹
商社で3年間勤務し、渡米。ニューヨークで写真家としてのキャリアをスタートした。昔から写真集を観ることは好きだったが、写真家としての経験はない。しかしなぜか「写真家になる」という想いは強かった。そのきっかけをくれたのは、神保町の古書店で見た一冊の写真集。そこには、沖縄の民家の裏庭を撮った写真があった。
「夏の昼間に撮られた、閉ざされた空間の写真でした。それを見たとき、まるで自分がその写真を撮ったんじゃないかという、デジャヴのような感じがしたんです。自分も写真家としていけると思いました」
だが、ニューヨークでは何もかもうまくいかなかった。仕事もない、お金もない、生活は苦しい。「助手、やります」という広告を現像所に貼り、声をかけてくれた写真家の元で撮影を手伝った。夜には街を歩き、建物や街の風景を撮り溜めた。
「昨日はコマーシャル、今日はファッションなど、ジャンルを問わずいろいろな写真家の助手を引き受けました。この経験が将来、どんなふうに自分の役に立つのか考えたことはありませんでした」
やがていくつかコネクションもでき、写真家の助手としてスタジオに入るようになった。
「たくさんの写真家と仕事をしました。でもおもしろいことに人と出会えば出会うほど、『自分が目指すのは彼のようなキャリアじゃない』と実感したんです。もちろん、それぞれに才能があり、撮る写真は素晴らしかった。でも本人のキャリアにはまったく興味がなくて、『自分もこの人みたいな道を目指そう』と思うことはありませんでした」
それはまるで、無限に広がる将来の選択肢を一つずつ絞り込む作業のようだった。
「不思議なんですが、僕はニューヨークで現代アートの写真家につくことが一度もなかったんです。ファッションやアーキテクトの写真家と仕事をすることはあっても、現代アートはなかった。だから今、僕は現代アートの写真に取り組んでいるのかもしれません」
さまざまな写真家の助手を務める一方で、長谷さんはHIVなどの問題を抱えた人が集まる施設『HOUSING WORKS』に3年間通い、写真を撮り続けた。深刻な障害を抱えてもなお、強く生きる彼らの姿。長谷さんはそこで撮った写真を『The Happiness Within』としてまとめ、これを最後に帰国を決めた。
「この作品により、僕の中で変わったものがあったんです。日本を出てからずっと、僕は大きなモヤモヤを抱えていた。でもトンネルの奥を見通すみたいに、はっきり向こうが見えたんです」
それは、「この世界はなんでもアリだ」という感覚だった。これまでは答えのないところに答えを見つけようとし、混沌とした世界に意味という橋を渡そうとすることに一生懸命だった。どの写真家の助手を務めても、「自分が求めるものはこれじゃない」ということを感覚的に思い知った。これではない、他のなにか。それを探し、思考を続ける毎日だった。しかしなんてことはない、そもそも世界には意味など必要なかったのだ。世界は絶対的な存在感で、ただそこにあり続ける。
日本に帰ってからも、6年間に渡って山あいの小さな町で撮りためたシリーズ《ENA》や、原初的な自然環境のなかに人間の創造的な行為を描いた《First Composition》などの作品を意欲的に制作。そして2017年10月、長谷さんはコートヤードHIROOで個展を開催する。
「今回、展示する作品は《181°》というシリーズの流れを汲むもの。《181°》は、180°視野の広がる自然に人工の意図を1°加えて、新たな調和の世界を創造するというのがコンセプトです」
《181°》も今回の展示も、自然を背景に人工物を配置し、自然と人工が均衡する異次元の空間を創ることは変わらない。だが今回の展示ではその人工物の素材として、木や布など、より自然に近いものを選び、遊び心やハプニング的要素を演出した。
「《181°》もそうなのですが、自然の中に人間のクリエイティビティを加えたとき、どこで調和されるのか、あるいは、ただの異物であるのか。美を通して探ることが、自分にとってのテーマです」
長谷さんはそう話す。たとえば海に立てた長さ5メートルの棒を撮った写真。棒の先が少し右に傾いているが、写真全体として眺めたとき、なぜかその傾きがバランスよく感じられる。
「傾きがバランスよく、美しく感じられるというのは、どういう人間の心理を映しているのだろう、もしかして人間の心にもそういった”不均衡のバランス”みたいなものがあるのだろうかと、写真を撮ってからふと思ったんです」
人間が美しいと感じる人工物は、一体、自然の中で不要なものだろうか。果たして、人間のクリエイティビティは自然の一部になりうるのか。人間の不思議さが少しだけ紛れ込んだ写真を通して、そんな発想が無限に広がる。
誰の心にもあるありふれた自然と、どこか突飛でおかしみも秘めた人工のオブジェ。その二つを同時に写せば不協和音がやはり漂う。だが、政治も人種もカルチャーも、異質なものが自由自在に交差するコートヤードHIROOという場所と共鳴すれば、そこに残るものはもしかしたらただ、解決の和音だけなのかもしれない。
認定NPO法人 富士山世界遺産国民会議
《世界に誇る、富士山の美しさとはどのようなものでしょうか?》
「天然の造形美」と「荒々しい自然の脅威」が表裏一体富士山は日本の自然の縮図である
四方を海に囲まれた日本は、四季の変化に富み、美しい自然が魅力。実に、国土の約7割が森林で覆われていています。その一方、森林の大半が、江戸時代からコツコツ植林を続けた人工林であるということも、日本の自然体系の大きな特徴となっています。そのため、ある程度人間が介入しなければ、森林は機能や美しさを保持できず、当然、土砂災害などの脅威にさらされることも少なくありません。
豊富な自然と、荒々しい自然の脅威。この2面を同時に持つことが日本の自然の特徴であり、おもしろいことにこれらはそのまま「富士山」という特定の存在の中にも見られます。すなわち、なだらかな裾野が優雅な印象を与える天然の造形美と、昔から噴火を繰り返し、人々に災いをもたらしてきた自然の威力、この2つが表裏一体となって富士山の価値を形成しているのです。
確かに、自然災害は不幸な出来事かもしれません。しかし、東日本大震災がそうであったように、災害は人々につながりの大事さを思い出させ、国としての団結力を強固にします。古来、日本人は災害のたびにそうした苦しみを乗り越え、たくましくも新しい未来を創造してきました。そういう歴史も、富士山に代表される日本の自然が果たす機能のひとつと言えるかもしれません。
《日本の美しい自然・文化・心をサステイナブルなものとするために、国、企業、個人としてできることは?》
「循環性」と「連続性」その中で、日本の美しい自然や文化を確実に継承する
日本文化を見渡すと、「循環性」と「連続性」というキーワードが浮かんできます。たとえば、伊勢神宮では20年に一度「式年遷宮」を行い、社殿や神宝などを新しく造り変えます。この際、大切なことは以前とまったく同じものを造ること。当然、職人達の間で技術の継承が確実に行われていなければ瓜二つのものを再現することはできません。
かつての日本では、こうした技術の継承があちこちで行われていました。もっと日常的なことでいえば、雲の様子から天気を占ったり、気候の変化から農作物の出来を予測したりする知恵が、当たり前のように世代を超えて受け継がれてきたのです。このように、日本は「循環性」と「連続性」を母体に独自の文化を育んできました。明治以降、日本は近代化を果たし、高度成長を実現します。そこでも日本は連綿と受け継がれる技術と知恵を礎に発展を成し遂げてきたのです。
現在、多くの企業が「循環性」と「連続性」の価値を見直し、CSV活動に力を入れています。「企業は利益を上げればいい」という時代は終わり、理念の普遍性や立ち居振る舞いの美しさが、その企業の価値を決定するようになりました。地域の特性を生かして多様性を発揮し、日本の美しい文化や自然を後世へ引き継ぐために企業として、あるいは、個人として何ができるか。私達にそうした想像力が求められています。そして、そうした活動を「日本」という単位に集約し、求心性をもたせていくことが、国に期待される役割ではないかと思います。
《日本の自然・文化・心を継承するために、次世代の子ども達を育み、守ることの重要性とは?》
富士山を軸にした愛国心と愛着心を育成未来の可能性を次世代へ引き継ぐ
私自身、海外に留学した経験から、自然と愛国心について考える機会が多くなりました。今回、認定NPO法人富士山世界遺産国民会議理事長就任のお話をいただいたときにお引き受けしようと決意したのも、「日本のシンボルである富士山を軸に据えて、日本国民が一丸となれるイベントを活性化すれば、誰もが富士山に愛着を持ち、日本そのものに対しても愛国心を持てるはず」と考えたからです。その愛国心は、戦前の国威発揚に基づいた概念的なものとは違います。昔から霊験あらたかな聖山として崇められ、他の山々とは一線を画して語られる富士山をシンボルに掲げれば、日本人が愛国心を持つきっかけとなり、日本という郷土を愛するようになるだろうと思いました。
現在、2020年の東京オリンピックに向けてインバウンド対策はますます加速しています。しかしその一方で、私達は次世代を担う子ども達への価値継承も改めて再確認しなければいけません。彼らがやがて大人になったとき、夢見る未来をあきらめずに済むように、限りある資源を私達の代で浪費することなく可能性を残しておく。これこそサステイナブルな価値継承であり、また、彼らの心で育つ愛国心が、より良い日本へ導く原動力になるのだろうと思います。